喜劇百年の歴史

喜劇誕生まで
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曽我廼家劇誕生をもって、喜劇の始まりとされているが、演劇の起源とされる天宇受売命(あめのうずめのみこと)の踊りに八百万の神々が大笑いしたという〈岩戸隠れ〉伝説も喜劇的で、中世の散楽(曲芸、奇術などのサーカス的要素をもった芸能)の物真似芸の滑稽な演技、そして狂言、文楽や歌舞伎のなかのチャリ場(狂言中、滑稽な人物が活躍する場面)や、滑稽的な芝居などにもその笑いの要素が見受けられる。
そんななかで、「俄(にわか)」という笑いを目的としたジャンルの芸能が、享保の頃より上方で盛んになり、江戸の末頃には〈流し俄〉から 色街で演じられる〈お座敷にわか〉と変遷しはじめ、中身も歌舞伎狂言をもじった趣向の〈俄芝居〉というものも出てきた。そしてさらにぼて鬘(かづら)(紙で作った張りボテのかつら)はもとより、道具、衣裳、小道具もそれなりのものをそろえた上、座敷だけではあきたらず、神社や寺の境内の仮小屋でもやるようにもなり、プロ化していった。明治にはいり大阪では、座摩神社と御霊神社でその俄を競いあった。
当時人気の俄師は大和屋宝楽、信濃家尾半、初春亭新玉、初春亭二玉(後の団九郎)、三玉(後の団十郎)らであった。
そんな中、明治十年頃より文明開化の波をうけて演劇改良運動が起こり、書生芝居を俄にした〈書生俄〉、ニュースを俄にした〈新聞俄〉などが生まれた。この俄の流れの中から鶴家団十郎が千日前改良座にて〈改良俄〉というものを標榜して、一躍人気を博すことになった。

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喜劇誕生
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改良俄で鶴家団十郎が人気を博していたころ、歌舞伎の中村珊之助という役者がいた。堺から大阪へ丁稚奉公に出たが、芝居好きが嵩じて、十六歳の時に中村珊瑚郎の弟子になった。その珊之助が改良俄を観て「笑う芝居」を志す。手元にあった文芸倶楽部という雑誌のなかの尾崎紅葉が訳した短編小説の「喜劇夏小袖」というタイトルから、その「喜劇」をいただいて、中村歌六の弟子で同じ役者仲間の中村時代を誘い、「新しい喜劇」の一座を結成することになった。八才年上の時代は、松坂の合羽屋の息子。これも珊之助以上の芝居好きで、洒落っ気に富んでいた。二人は名前も前後亭右、左と変え、伊丹の劇場で旗揚げしたが、何分にも芸事好きだけの寄せ集め集団であったがため、散々な不入りの結果となった。そんな御難続きの二人が、和歌山の弁天座にかかっていた中村福円一座に狂言作者として加わった時、差し幕でやった「滑稽勧進帳」という芝居があたり、それが仕打ち(興行師)の豊島寅吉の耳にはいって、道頓堀の檜舞台の浪花座出演となった。明治三十七年の二月のことである。名前も曽我廼家五郎、曽我廼家十郎とし、座員一同も曽我廼家を名乗った。演目も従来の「滑稽勧進帳」「壺坂」などの歌舞伎もじりのお笑い狂言であるが、おりしも日露開戦の火蓋がきっておとされ、号外の声けたたましいなかの不入りの初日であった。しかし、そこに目をつけた五郎の才覚で、日露戦争を取り扱った「無筆の号外」という創作現代劇を急遽差し替えて上演、これが大当り。この成功を契機として従来の俄のつまらぬクスグリや下品な笑いを端折った、とくに歌舞伎俄などをさらにグレードアップした演目や、一堺漁人(五郎)、和老亭当郎(十郎)のペンネームで新作狂言にも挑む二人の力のこもった舞台が、後の京都、神戸、東京、名古屋でも好評を生み、順調な評価を得て、商業喜劇団として成長していった。

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次世代喜劇団
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とくに〈俄〉の大小のグループたちに及ぼした影響は、喜劇を標榜する群小劇団の発生をみてもあきらかである。そのなかの一つに先ずあげられるのが〈楽天会〉である。
曽我廼家五郎のもとにいた曽我廼家箱王と、鶴家団十郎のもとにいた鶴家団治が一座を組んでいたが、明治四十一年それぞれ中島楽翁(箱王)と、渋谷天外(団治)と改めその名から一字とって〈楽天会〉となった。これは当時、京都新京極劇場街を制した白井松次郎、大谷竹次郎兄弟の「松竹合資会社」(現松竹株式会社)が喜劇団を重視し、京都朝日座において結成させ、〈楽天会〉を名乗らせたものである。一座にはほかに、粂田通天、田村楽太、徳川天華、戸田三楽といった人がいた。新派、俄出身の役者が多くいたことからも“新派と俄をミックスしたような芝居”ともいわれている。曽我廼家喜劇とは、また一味ちがった斬新なアイデアと趣向、腕達者な脇役たちにささえられ、人気劇団になった。
次に〈飄々会〉がある。明治四十四年四月、もと歌舞伎役者の時田一瓠と新派出の高橋義雄が一座を組織し、翌年の正月からは曽我廼家を脱退した泉虎を迎えて、新派、俄出をまじえた劇団として、人気がでる。その他には、新派出身の田宮貞楽が、座員の全員に楽の一字をつけた芸名を名乗らせた〈喜楽会〉があり、少し遅れて、〈義士廼家劇〉というのが出来た。義士廼家由良之助を座長に、座員すべてに赤穂浪士ゆかりの名前をつけた。
そしてもう一つ、〈志賀廼家淡海劇〉がある。志賀廼家淡海は滋賀県堅田の出身で、江州音頭の音頭取りから、新派の一座を作ったが、曽我廼家劇の評判を聞き、“筋で笑わす”喜劇をと舵を切り換え、芝居中で唄う船を引き上げ、船頭衆は帰る…という自作の曲が、淡海節として全国的に有名になった。

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松竹家庭劇誕生
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昭和三年九月、大阪角座に、曽我廼家十吾と二代目渋谷天外を中心とした「松竹家庭劇」が旗揚げした。当時、人気劇団として引続き隆盛の曽我廼家五郎劇に対抗する劇団として松竹が立ち上げた劇団である。中心となった曽我廼家十吾は本名西海文吾、神戸の新聞販売店の息子として、明治二十四年に生まれる。幼少より物真似好きで、俄芝居の子役にかりだされ、明治三十九年に十郎の弟子となり、曽我廼家文福と名乗るも、前項の曽我廼家青年一派とともに反旗を翻し、〈大和家宝楽・曽我廼家青年一派合同〉劇では、十八才で早くもお婆さん役をしていたという。それから、義士廼家劇、飄々会、蝶鳥会、曽我廼家娯楽会と渡り歩き、大正五年に文福茶釜一座をつくって九州で人気劇団となる。十郎三回忌追善公演の折、五郎劇に一時参加する。その時、曽我廼家十五と名乗る。退団後は五の字を吾に変え、曽我廼家十吾となる。
家庭劇のもう一つの柱、渋谷一雄こと二代目渋谷天外は、明治三十九年に京都で生まれる。父初代渋谷天外の楽天会に子役として初舞台。十四才の時には「私は時計であります」というオムニバス形式の脚本を書き、十郎の手直しの上舞台化される。それから脚本修業にはいり、志賀廼家淡海一座に脚本七分役者三分で入座もした。

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松竹新喜劇から現在
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昭和二十三年十一月、曽我廼家五郎の死を契機として、五郎劇の曽我廼家大磯、秀蝶、小次郎、明蝶、五郎八たちに十吾たちの家庭劇、そして終戦後地方に巡業に出ていた浪花千栄子、石河薫、藤山寛美、天外たちの〈劇団すいと・ほーむ〉が合体して、〈松竹新喜劇〉が誕生。十二月中座で第一回公演の幕開けとなる。
五郎亡き後の上方喜劇の大きな穴をうめるべく、松竹の手によってスタートした松竹新喜劇は、戦後という混乱した社会世相のなかで、最初は不入りであったが、庶民の暮しぶりの向上にともなって、徐々に息を吹き返してきた。なにより劇団を勢いづかせたのは、昭和二十六年の長谷川幸延作、舘直志脚色「桂春団治」の上演であった。作品としての評価の高さはもちろんのこと、天外ほか、明蝶、五郎八、酒井光子たちの演技力、それに藤山寛美が丁稚役で才能を開花させたことは、演劇史上にも特筆されるものである。
その間の天外は、次々と新しい分野へのチャレンジにうって出た。チェホフの「熊」、ボーマルシェ「フィガロの結婚」より「笛五郎の結婚」、モリエールの「守銭奴」、イプセンの「民衆の敵」から「黒潮の湯」という翻訳物、今東光の「みみずく説法」、谷崎潤一郎の「細雪」、「台所太平記」などの文芸物、そして、テレビにも積極的に打って出、「親バカ子バカ」が大ヒットする。それからは「大阪ぎらい物語」、「銀のかんざし」、「花ざくろ」、「わてらの年輪」と堰を切ったような名作の製造である。天外作品同様、藤山寛美は役者として破竹の勢いの人気であった。特に「親バカ子バカ」での阿呆ぼん役は、一躍全国的なスターダムにのしあげた。
藤山寛美、昭和四年生まれ。父は新派の役者で藤山秋美。その関係から花柳章太郎に藤山寛美と命名され、関西新派の都築文雄に弟子入り。子役として初舞台を踏んでより、利発さを買われて、井上正夫、岡田嘉子の「己が罪」、新国劇島田正吾の「掏摸の家」、大江美智子の一座にと多数出演。昭和十六年には、十吾、天外と出会い家庭劇へ入座。十二才である。このとき太平洋戦争が勃発。二十年の十六才の折に、満州皇軍慰問団に加わり、悲惨な抑留生活を体験した後、二十二年に帰国して、〈すいと・ほーむ〉に参加する。そして松竹新喜劇の結成メンバーとなるのだが、四十一年の復帰以後は、小島秀哉、小島慶四郎、千葉蝶三朗、酒井光子、鶴蝶等を相手役に、さらに芸に磨きをかけ、客席は絶えず寛美ファンで溢れ返っていた。また天外の後をうけつぎ劇団の統率者となり、ドル箱劇団として二百四十四ヶ月の連続無休公演という偉業をやってのけた。
平成二年五月に、六十才の若さでこの世を旅立った藤山寛美の後、貴重な上方喜劇の灯を残すべく、翌年の三月に新生松竹新喜劇が中座で旗揚げした。二代目渋谷天外の次男渋谷天笑、十吾の弟子であった曽我廼家文童を俳優部の両輪として、ベテランの高田次郎、小島慶四郎、酒井光子の三人を幹部とし、藤山を脚本からプロデュースに至るまで陰で支えてきた座付き作者の平戸敬二が再びかれらを支えていくことになった。しかしその平戸も二年後に他界、劇団員の入退団等を乗り越え、喜劇百年を迎えるにあたり、三代目となった渋谷天外を軸に、さらに飛躍すべく、劇団の充実化をはかっている。

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