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俳優名鑑

歴代の名優

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角藤 定憲(すどう さだのり)
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新演劇の創始者。

慶応3年7月(1867)岡山市七軒町に生まれる。岡山県の士族で、故郷で官吏や郵便配達などを勤め、21歳の時京都へ出て巡査になったが上官と争って退職し、やがて大阪で自由党の壮士となり自由民権運動に参加、政断演説を行った。また、自由党の機関誌「東雲新聞」の寄稿家となって、自伝的小説「豪胆之書生」を著し、吉田大華堂より出版した。

明治21年(1888)12月3日、中江兆民の後援を得て、自由党壮士らを誘い、大阪新町の新町座で「壮士芝居」を旗揚げした。これが新派のはじめであるとされている。

勿論、素人の壮士連ばかりなので、角藤が崇拝していた歌舞伎の三代目中村宗十郎に指導を依頼して、その弟子の中村九升に実地指導受けた。狂言は、角藤が書いた小説「豪胆之書生」を脚色したものと、「勤王美談」だった。

角藤定憲が壮士芝居を始めると、その珍しさ、元気の良さ、旧劇(歌舞伎)には見られない新鮮さから、たちまち大評判となり、その亜流芝居が日本全国に現れて覇を競った。

角藤一座が東京へ上って来たのは明治27年6月(1894)である。しかし、先駆者としての苦労を重ねながらやっと中央に進出した頃には、川上音二郎一座、山口定雄一座、福井茂兵衛一座が三つ巴になって活躍していたので、あまり出場もなく、完全に時流に乗り遅れてしまった。また世論を訴え、がなり立てるだけの壮士芝居では、客にも受けなくなっていた。

かくて、角藤は新演劇の主流にはなれず、後進に追い越され追われて中央を離れ、ただ「元祖」という看板だけを持ち歩くことになった。

晩年は憐れであったという。結局、角藤がよき後継者を育てなかったためであろう。明治41年1月20日(1908)、神戸大黒座で「筆子」上演の初日、楽屋で散髪をしていたところ、悪寒を感じて横になったが、ついに立ち得ず、急性肺炎にかかって死んだ。享年43歳。

川上 音二郎(かわかみ おとじろう)
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明治24年2月、川上音二郎、大阪堺卯の日座「書生芝居」を旗揚げする。

元治元年1月1日(1864)福岡に生まれる。

19歳の時自由党に入り「自由童子」と名乗る。この頃、関西一円で政府攻撃演説のため拘置、服役が170回を越える。

明治21年(1888)大阪で落語家桂文之助に弟子入りし、自由亭○○の芸名で千日前の井筒座の高座に上がり、「オッペケペ節」を唄い評判となる。ズバリ痛烈な指摘、七五調で歯切れのいいオッペケペ節は人から人へ、鉢巻き陣羽織姿と歌詞入りのビラは飛ぶように売れた。

明治24年2月(1891)、藤沢浅次郎らとはかって「書生芝居」と銘打ち、大阪堺の卯の日座で旗揚げをする。出し物は「板垣君遭難実記」「経国美談」。同じく明治24年6月、一座を率いて東京浅草鳥越の中村座で「日本改良演劇」と銘打ち「板垣君遭難実記」「監獄写真鏡」を上演して大当たりを取る。

川上のプロデューサー的な勘の鋭さを最も発揮したのは、日清戦争の時である。明治27年8月(1894)、日清戦争が起こるとそのすぐ翌月に浅草座で「壮絶快絶日清戦争」を上演して空前の大当たりを取った。

その後、川上一座の興行はあまり思わしくなく、劇場(川上座)を建てたり、第五回総選挙に出たりと多方面にわたり精力的に活動をするが成果が得られなかった。また、日本人として初めて海外公演も行っている。そしてその時、貞奴(音二郎の妻)が女優として舞台を踏んでいる。(川上音二郎及び音二郎の海外進出については別項で)しかし、川上音二郎の新派に尽くした功績は大きい。

明治44年11月11日(1911)、大阪帝国座の舞台で死去。享年47歳。葬儀は東京、大阪両新派組合の公葬として大阪で行われた。全新派俳優が駆けつけ、会葬者は一万人を越え、贈られた花輪は150余基、弔いののぼりは500本にものぼったという。遺体は博多承天寺に土葬された。戒名は、清流院釈秀音居士。

川上 貞奴(かわかみ さだやっこ)
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本名貞。明治4年(1871)生まれ。

幼い頃、芳町の芸者屋浜田屋の養女となり、やがて奴と名乗って芸者に出、伊藤博文の寵を受けた。明治23年(1890)、川上音二郎と結婚。以後川上一座と共にした。川上一座海外渡航の時、始めて貞奴と名乗って舞台に立ち、欧州を巡業して一躍その名を高めた。帰朝後は新演劇運動に活躍し、女優養成所を設けて多くの女優を育成した。

昭和21年10月7日没(1946)、享年76歳。

伊井 蓉峰(いい ようほう)
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本名、伊井申三郎。明治4年8月16日(1871)、東京日本橋呉服町に生まれる。父は写真家で発明家の北庭筑波である

医学予備校・独逸協会に学ぶが、18歳の時父の死に逢い、卒業後神戸の三井銀行に就職する。その後著述家を志したが、21歳の明治24年8月(1891)、浅草鳥越の中村座に旗揚げした川上一座の俳優募集を読売新聞で見て応募し、採用されるが意見が合わず間もなく退座する。

同年、父の懇意であった依田学海の後援を得、浅草公園の吾妻座に男女合同の改良演劇「済美館」を組織し、芸術至上の写実主義をかかげて11月旗揚げした。一座には水野好美、千歳米坡がおり、米坡はわが国新演劇の女優第一号となった。川上、角藤の政治的な色合いの深かったものとは異なり、純粋に芸術的、文学的な新しい演劇を目標とした。しかし、座員のまとめがうまくいかず、また興行的にも失敗に終わった。続いて東北方面へ巡業に出るが、これも不成功でついに「済美館」は解散する。

その後伊井は各座を転々とし、明治27年(1894)浅草座の川上一座に加入するが冷遇され、翌28年1月(1895)、佐藤歳三、水野好美と組み、喜多村緑郎の加入を得て「伊佐美演劇」を組織し、浅草座に旗揚げした。しかし、これもうまくいかず間もなく分裂する。

翌29年4月(1896)、一座を率いて東京に出、市村座や演技座、浅草座等の小劇場で奮闘の結果徐々に好評を得、同31年9月(1898)には東京の檜舞台歌舞伎座に進出して、川上一座をしのぐ人気を得る。明治35年1月(1902)からは、東京日本橋中洲の真砂座を本拠に活躍する。ここで近松研究の名のもとに3月の「心中天網島」を皮切りに、近松門左衛門の作品九種を河合武雄を女房役に上演した。浄瑠璃を使わず、セリフは原作に忠実な写実の演出を試みるなど、この近松作品の復活上演は話題となり、明治演劇史上にも意義ある足跡を残した。

明治41年1月(1908)以降は、新富座、明治座の大劇場にも進出し、42年(1909)東京座において「新派大合同劇」が結成された時は、その座頭に推された。

大正元年11月(1912)、二世市川左団次から明治座を譲り受けてその座主となり、一座を率いて同座を根城に興行するようになり、押しも押されぬ新派の第一人者となった。

しかし、新劇の台頭や歌舞伎の人気におされ、新派劇に衰微のかげが見え始めたため、大正4年(1915)再び河合と合同し、6年1月(1917)にはさらに喜多村を加えて、いわゆる「新派三頭目」の一座を実現し、これが昭和5年(1930)まで新派の主流となった。

昭和6年11月(1931)、明治座での伊井、河合、喜多村、花柳章太郎の新派大合同の「二筋道」が空前の大ヒットとなり、その後次々と続編が出たが、昭和7年6月(1932)東京劇場「お名残二筋道」の中日ごろ、慢性腎臓病と動脈硬化症のため病に臥し、この舞台が最後となって、同年8月15日、隅田の自宅で没した。享年62歳。

容姿に優れ、立役を専門にした名優であった。芸名の伊井蓉峰も依田学海が『好い容貌』をもじったものとも云われている。江戸っ子肌で統制力があり、新派劇開拓の功労者しとても、日本演劇史上にその名を残している。

河合 武雄(かわい たけお)
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本名、河合武次郎。明治10年3月13日(1877)、歌舞伎役者大谷馬十の長男として生まれる。

はじめ、父は役者になることに反対したが、あくまで初志を貫き、18歳の時山口定雄の門下となって河合武雄を名乗った。追々腕をあげて、四国巡業のあと大阪弁天座へ乗り込んだ時、沢村源之助の世話になり、一時沢村百之助と名乗った。

その後、源之助と別れて横浜羽衣座で、佐藤歳三・金泉丑太郎と一座を組んだ。「縮屋殺し」の女房の役が評判となり、芸名大いに上がった。

その後、水野好美・児島文衛らと浅草常磐座を根城に「奨励会」を起こし、兼ねて伊井蓉峰・沢村訥升らとも手を結び、いよいよその名が高まった。

舞台写真
昭和14年2月『仮名屋小梅』より

明治35年、伊井蓉峰と一座を組んで、中洲の真砂座で「近松研究劇」を始め新演劇の向上を図り、壮士芝居を脱皮した。

明治40年1月、新富座で上演した伊井・河合一座の「通夜物語」は大評判を呼んで観客が殺到し、交通整理の巡査が出たほどだったという。

大正2年「公衆劇団」の旗揚げをしたが失敗に終わった。

大正6年1月には、真山青果の「二人静」が成功して、いわゆる、伊井・河合・喜多村の新派三巨頭時代が現出して新派の盛況時代を迎えた。喜多村とともに新派の名女形ともてはやされ、幾多の名舞台を残している。

昭和17年3月21日没。享年66歳。

喜多村 緑郎(きたむら ろくろう)
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本名、喜多村六郎。明治4年7月(1871)、日本橋橘町の薬種問屋に生まれる。

しばしば素人芝居に出演していたが、明治25年11月、青柳捨三郎一座に加わり、蛎殻町友楽館で伊井蓉峰の妹役で初舞台をふんだ。伊井に誘われて青柳一座の北海道巡業に参加して役者になる決心をしたという。

その後、山口定雄一座、伊佐美劇団、青木千八郎、福井茂兵衛らの諸座に加入して重宝がられていたが、当時の書生芝居にあきたらず、高田実、小織桂一郎、岩尾慶三郎、秋月桂太郎、木村周平ら演技派の同志と語らって、明治29年「成美団」を結成して写実的な演技の創造につとめ、新演劇の基礎をつくった。

舞台写真
昭和15年3月『通夜物語』より

明治39年6月、10年ぶりに東京にもどり、本郷座の高田実一座に加わって、同年10月初演の「侠艶録」で力枝に扮し好演、これで女形としての地位を確立し、同時に新派劇の性格づけも明らかにされた。

その後、伊井・河合・喜多村の三巨頭時代と謳われる新派の牽引車的役割を果たし、河合とともに新派の女形芸を確立した。

歌舞伎に傾倒し、その演出法を新派に取り入れるなどして、今日残っている新派古典の名作の演出はそのほとんどが喜多村が行ったものである。

昭和23年芸術院会員、昭和30年人間国宝、同年文化功労者に選ばれた。

昭和36年5月16日没。享年91歳。

井上 正夫(いのうえ まさお)
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本名、小坂勇人。明治15年11月11日(1882)、愛媛県伊予郡砥部村大南に生まれる。

17歳の時大阪に遊学中、道頓堀朝日座において高田実一座の新派劇「百万円」の舞台を見て心大いに動き、翌年帰郷中に新演劇敷島義団に入る。のちに、酒井政俊の書生となり、四国・九州を巡業して後藤良介を知り、明治35年京都の村田正雄(初代)、岩尾慶三郎、山岡如萍一座に加入する。

明治37年、始めて上京して真砂座の伊井・村田一座に加わった頃からめきめきと頭角を現した。新派の團十郎といわれた高田実に生涯私淑していた。

大正前期に映画との連鎖劇に出演して評判を呼んだが、大正8年新派第二陣を結成、明治座で「地蔵経由来」「酒中日記」「一本杉」などを出し、革新の気焔をあげて若き花柳章太郎に影響を与えた。

舞台写真
昭和23年10月『果実』より

昭和11年、私財を投じて「井上演劇道場」を創設、新派と新劇との中間をいく「中間演劇」運動をおこした。その間、村山知義・杉本良吉・八田元夫らの新劇演出家を起用、また三好十郎・北條秀司・八木隆一郎などの劇作家と結んで次々と新しい作品を発表し、新派劇の幅を大いに広げた。

この「井上演劇道場」には、山口俊雄・岡田嘉子・山田巳之助・山村聡・佐々木隆などがいた。水谷八重子・市川紅梅などの女優も客員として参加していた。井上正夫は常に周囲に若い人々を集めて、そこから若さを汲み、新しい世界の空気に触れようと努力していた。若い世代を尊敬し、その力を跳躍台にして新しい仕事に飛び込んでいくのが彼のやり方だった。

昭和25年2月7日没。享年70歳。

花柳 章太郎(はなやぎ しょうたろう)
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本名、青山章太郎。明治27年5月24日(1894)、東京日本橋本銀町に生まれる。

父が事業に失敗し、花柳二歳の時病死したので、姉たちが相次いで芸者になったが、長姉が独立して本郷同朋町に「花柳」という自前看板をあげた。

明治41年2月、花柳15歳の時、母の意志により喜多村緑郎の門に入り、学校へ通いながら部屋子となって、同年6月新富座「変化傘」で初舞台をふむ。

明治45年5月、部屋子から大部屋に移り、大正3年6月新富座「大将の家」の半玉ぽん太郎で認められ、大正4年3月本郷座で初演の「日本橋」で雛妓お千世を演じて、これが出世役となった。

大正6年2月、歌舞伎座の「生さぬ仲」の衣笠三保子役で幹部に昇進、新派のホープとして将来を嘱望される。この時の引き幕が30数張も贈られるほどの人気があった。

大正10年、新劇研究のため藤村秀夫、小堀誠とはかって「新劇座」をつくる。大正11年新劇座第二回公演で、久保田万太郎の「雨空」を出し、これで国民文芸会章を受章した。

関東大震災後、大阪で「新進新派」を起こして人気をあげ、昭和2年東京に帰って「松竹新劇団」を結成、歌舞伎の若手ホープや松竹蒲田の女優を招いて約一年、奮闘公演を続けた。

舞台写真
昭和29年11月『婦系図』より

昭和4年2月、市村座の新派大合同で「金色夜叉」が上演され、この頃から花柳、水谷で二番目狂言を受け持つようになった。 昭和14年、溝口健二監督の「残菊物語」で日本映画賞などを受賞、同年11月、柳永二郎、大矢市次郎、伊志井寛、川口松太郎らと「新生新派」を結成してその座頭となる。

戦後、新派大合同して「劇団新派」を結成して活躍した。

無形文化財、芸術院会員、文化功労者などの認定を受け、従四位勲三等旭日中勲章を授与された。

昭和39年自らの当たり役から、花柳十種を制定している。

昭和40年1月6日没。享年70歳。

水谷 八重子(みずたに やえこ)初代
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本名、松野八重子。明治38年8月1日、時計商の松野豊蔵、とめ夫妻の次女として神楽坂に生まれる。

八重子、2歳の時、長女の勢舞(せん)が水谷武(竹紫)と結婚。五歳の時、父の死去によって母とともに水谷家に。

水谷竹紫は大正2年7月、島村抱月、松井須磨子によって創設された芸術座に参加、9月の旗揚げ公演に上演されたメーテルリンクの「内部」に、八重子を群衆の子役として舞台に出演させた。これが八重子の初舞台となった。

大正9年、新劇協会の「青い鳥」で夏川静枝と競演、チルチル役が好評。

大正10年、国活の「寒椿」で井上正夫の娘役で映画初出演。しかし、八重子はまだ双葉女学校在学中のため実名をあかすことができず、「覆面の令嬢」として出演していた。

舞台写真
昭和28年10月『花の生涯』より

大正12年9月1日、関東大震災で東京は壊滅した。慰安に飢えた群衆をみて水谷竹紫は、芸術座の再建を思いつく。そして翌大正13年2月、二十歳の八重子を盟主とする第二次芸術座を結成する。

八重子の松竹傘下入りは昭和3年10月、本郷座での新派公演「何が彼女をそうさせたか」である。そして翌大正4年、市村座での新派大合同あたりから、伊井、河合、喜多村の三頭目時代が後退し、新進の花柳、水谷にバトンが渡されたのである。

以後、ガンに冒され何度も入退院を繰り返しながら、花柳章太郎亡き後の新派を率いてきた。亡くなった年(昭和54年)の1月、新橋演舞場での「風流浮世ぶし」の橘家橘之助の役で、幕切れ花道の七三で見せる表情は、当時73歳の八重子が17、8歳の小娘に見えたことは忘れられない。

昭和31年芸術院賞、33年紫綬褒章受章、41年芸術院会員、50年勲三等宝冠章。

昭和54年10月1日没。享年74歳。

大矢 市次郎(おおや いちじろう)
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本名同じ。明治27年2月11日、東京浅草須賀町に生まれる。

初舞台は、明治40年伊井蓉峰が出ていた日本橋中洲の真砂座「乞食の子か大名の子か」の小学生。子供エキストラに応募して採用された。

18歳の時、60歳の老人を演じて好評を得、それからはしばしば老け役がまわってくるようになった。老人を町で見かけると写真を撮って研究したという。

大矢の名脇役ぶりは、師匠の藤井六輔ゆずりといえなくもないが、「鶴八鶴次郎」の番頭佐平、「風流深川唄」の父利三郎、「明治一代女」の箱屋巳之吉など、大矢あるが故にこれらの芝居がコクのあるものになっている。

舞台写真
昭和25年9月『明治一代女』より

昭和14年、花柳、柳、伊志井らと新生新派を結成。

大矢には人情話が多く残っている。その一つに、彼の当たり役「明治一代女」の箱屋巳之吉の墓が無縁になっていると聞いて、今戸の大雲寺に墓碑を建てたというのがある。墓碑の文字は川口松太郎が書いた。偶然にも建碑の年が、故人の50回忌に当たっていたという。

昭和37年芸術院賞受賞、同年紫綬褒章。昭和42年勲四等旭日小綬章を受章している。昭和46年7月、歌舞伎座での「風流深川唄」の利三郎が最後の舞台。

昭和47年5月28日、肺ガンのため没。享年78歳。

伊志井 寛(いしい かん)
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本名、石井清一。明治34年2月7日生まれ。

初舞台は、大正8年10月、大阪文楽座。

伊志井は、豊富な芸歴を持っている。文楽で修行して津駒大夫の名を持ち、大正13年蒲田から帝国シネマに引き抜かれて新進スターとなり、昭和2年舞台人を志して「新劇協会」へ入った。昭和3年4月、浅草松竹座の伊井・喜多村一座に出演したのが、新派入りの最初であった。喜多村門下。

昭和9年、「新派更新会」に名を連ね、その機関誌「演劇新派」の編集に、柳永二郎とともに当たった。

舞台写真
昭和31年5月『風流深川唄』より

昭和14年、花柳、大矢らと、「新生新派」を旗揚げした。

戦後は、パパものをヒットさせ、新派劇にホームドラマの道をひらいた。幅広い体験と多彩な芸の持ち主であった。

昭和47年4月29日没。享年71歳。

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