《ナブッコ》みどころレポート

2024年2月20日 火曜日

音楽評論家 加藤浩子

 

充実の歌手と合唱、明るく柔軟なイタリア風味のオーケストラ。これぞ《ナブッコ》!

 

 《ナブッコ》は伝説のオペラだ。イタリア・オペラの大家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の3作目のオペラで、1842年にスカラ座で行われた初演は彼の人生最大の成功(初演に続くシーズンに57回上演され、これは今なおスカラ座のシーズン最高記録)を収めた伝説的な出世作。その直前、ヴェルディはわずか2年間で二人の子供と妻を喪い、2作目のオペラで大失敗を喫する悲劇に見舞われていた。《ナブッコ》は、追い詰められたヴェルディが持てる力の全てを注ぎ込んだ傑作だった。

 

 もう一つの「伝説」がある。《ナブッコ》の成功は、物語に登場する『旧約聖書』の「バビロン虜囚」(バビロニアに敗れたヘブライ人が、敵国バビロニアに連行された事件)のエピソードが、オーストリア人の占領下にあったイタリア人の心を打ったためだというのだ。

実はこの「伝説」は、近年、研究によって信憑性が疑われるようになっている。だが《ナブッコ》というオペラ、そして、「イタリアの第二の国歌」とも称される人気を誇る〈行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って〉が、イタリア人、そして世界中の人々の心を揺さぶり続けていることに変わりはない。《ナブッコ》は、このようなさまざまな背景ともども、語り継がれるべきオペラなのだ。

《ナブッコ》の成功は、ヴェルディの「音楽」そのものにあったと筆者は思う。シンプルで、力強く、大胆で、推進力に富み、心を熱くし、熱狂させる音楽。静謐なシーンでは、心に沁みる美しいメロディも聴かれる。〈行け、我が想いよ〉は大部分がユニゾンで歌われ、聴いてすぐ口ずさめるほど親しみやすい。そんな「みんなの歌」を書いたイタリアオペラの作曲家はいなかった。ヴェルディはオペラをより身近な、大衆のものにしたと言われるが、それは《ナブッコ》から始まったと言っていい。

 もちろん《ナブッコ》は親しみやすいだけではない。イタリア・オペラに欠かせない美しいメロディや超絶技巧といった、いわゆる「ベルカント」の様式による「声」の饗宴も楽しめる。主役の歌手たちにはパワフルな声と幅広い表現力、卓越した技術が必要だ。そして指揮者にも、「歌」を大事にしつつオーケストラを生き生きと弾ませる、イタリア・オペラの美学が要求される。

 

 メトロポリタン・オペラの《ナブッコ》は、そんな本作の魅力を120%引き出してくれる名演だった。

 まず歌手が凄い。ナブッコ役のG・ギャグニッザは本役を得意とするジョージアのバリトン。黒光りする声はヴェルディに理想的で、力強さと美しいレガートも併せ持つ。劇中のハイライトであるナブッコの改心のアリアは、ヴェルディオペラの「人間味」が凝縮された名唱だった。

 

 難役アビガイッレを歌うのは、ウクライナが誇るドラマティックソプラノ、L・モナスティルスカ。声量は圧倒的で、声は高音から低音までクリアでエネルギッシュ。装飾歌唱も煌びやかだ。細やかな表現も巧みで、生まれが卑しいとわかって傷ついた瞬間の慄くようなピアニッシモにはぞくりときたし、幕切れの服毒シーンでの切なくも情感豊かな歌には涙を誘われた。世界最高のアビガイッレであることは間違いないだろう。

 ザッカーリア役 D・ベロセルスキーは、深く格調のある声に時に荘厳さを滲ませ、全体のキーパーソンとなる神官兼指導者の存在感を示した。彼もウクライナが誇る名手だ。

 イズマエーレとフェネーナのカップルを演じた若手2人は今回の大きな収穫。フレッシュでハリのある美声を聴かせた S・ベクはスピント系テノールの逸材として期待できるし、フェネーナ役 M・バラコーワの光沢のある声と豊かな響き、美しいイタリア語をはじめとする完璧な歌唱テクニックにも将来性を感じた。

本作では合唱が「第二の主役」であり、聖俗の様々な役割を担うが、メトロポリタン・オペラが誇る合唱団も見事だった。幕開けの劇的な合唱から〈行け、我が想いよ〉の繊細きわまりないピアニッシモまで、その場その場に溢れる感情を代弁し、驚異的に広いダイナミックレンジを駆使してドラマを語り尽くした。

 指揮者のD・カッレガーリは幕間のインタビューで「ヴェルディは人生の一部」と語っていたが、その言葉通り、METのオーケストラをイタリアンなオーケストラに変貌させた。音色は明るく温かく、リズムには弾力があり、生命力に満ちる。劇的なクレッシェンドで聴き手を興奮させる一方、歌に寄り添う旋律はリリカルで美しい。ここ!というところで確信に満ちた響きを聴かせるのも、ヴェルディを知り尽くしているから。まさに理想のヴェルディだ。

 

 E・モシンスキー演出のスペクタクルな舞台も見応えたっぷり。舞台中央の大神殿はエルサレムとバビロンが表裏になっており、場面に応じて回転する。METの大舞台の醍醐味だ。休憩時間にバックステージが映り、装置の裏側が見られるのもライブビューイングだからこそ。衣装にも一工夫あり、古代のテイストを加えた主役たち以外は、ヴェルディと同時代の19世紀の庶民の衣装なのも面白い。

 伝説の傑作《ナブッコ》の、理想的な上演。ぜひ、映画館でお確かめあれ。

 

 

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