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概要

演劇・映画の専門図書館の設立から開館まで

河竹黙阿弥作品の台本や小津安二郎映画のシナリオ、九代目市川團十郎や六代目尾上菊五郎の舞台が偲ばれる戦前の筋書や雑誌…。松竹大谷図書館では、松竹が製作したものを中心に、様々な演劇・映画・放送等の資料を閲覧することができます。


開館準備期間中、旧松竹会館前に到着した
兄・白井松次郎の蔵書を手にする大谷竹次郎
松竹株式会社は、白井松次郎、大谷竹次郎という双子の兄弟が、明治28(1895)年に歌舞伎の興行に参加したことを創業とする、百十年以上の歴史をもつ演劇・映画の興行会社です。松竹の歌舞伎興行の歴史は近代歌舞伎の興行の歴史と言っても過言ではありません。また、大正9(1920)年には映画の製作にも着手し、数々の名作を世に送り出しています。

大谷竹次郎が、その功によって文化勲章を受章したのは、昭和30(1955)年のことでした。「この文化勲章は、私個人がもらったものではなく、演劇、映画界全般が受章したものだ。」と考えた竹次郎の脳裏に浮かんだのは、以前から懸念のひとつだった、松竹並びに竹次郎個人が所蔵する膨大な資料。これらの資料を、ひとつの会社または個人が所有するのではなく、一箇所に集めて管理し散逸を防止し、一般に公開して社会のために役立てよう、と考えたのです。

当時、このような専門図書館は、早稲田大学の演劇博物館のみでした。一企業が社内の利用に限定せず、一般に開放された演劇・映画の専門図書館をつくるというのはめずらしく、愛好家や俳優たち、ひいてはほかの興行関係者たちにも利用してもらおうと設立を計画したその考えは、画期的だったといえます。

そして、大谷竹次郎は、昭和31(1956)年12月に文化勲章の年金を資金として「大谷」の名を冠した演劇・映画に関する専門図書館「財団法人松竹大谷図書館」を設立しました。

財団設立から開館までに与えられた準備期間は一年半のみでした。この短い期間で、くずし字で書かれた歌舞伎の台本や浄瑠璃本、その他の演劇・映画・テレビの台本、図書、雑誌、演劇・映画のプログラム、ポスター、写真など、普通の図書館に比べてはるかに多様な資料を整理しなければなりませんでした。


資料の整理にあたる小河明子(中央正面)と
当時のスタッフたち
当館最初の専門職員として着任し、開設準備を主導した小河明子は、図書館司書の資格は持っていましたが、演劇・映画の知識はほとんどありませんでした。しかし、最初に整理方法を決定することが重要と考え、大学の図書館学の教授や国会図書館の教えを受けて、全国の図書館が採用している「日本十進分類法」を採用し、演劇・映画の専門分野は分類を特に細分化して「芸術部門細分表」を考案しました。これによりスムーズな資料登録が可能となりました。パソコンでのデータ入力に移行した現在でも、この細分表に従って整理されており、当館の重要な基盤となっています。

また、資料の整理・保存方法にも独自の工夫を凝らしました。図書のようにしっかりした作りではない台本などは書架に立てにくい為、板目紙でカバーを作成して長期保存に耐えられるように補強を施しました。スチール写真も、いつどこで上演されたか分かるように、裏に作品タイトルや上演年月などの説明を一枚ずつ記載して整理し、一目でわかるようにしました。
他にも、明治以降から現在までの大劇場で上演された演劇の上演記録を作成し、過去の上演資料を探すのに役立つように考案するなど、工夫は多岐に渡っています。

こうして一年半の準備期間の後に、一部未整理の資料を残しつつも、昭和33(1958)年7月1日に旧松竹会館の9階にて開館しました。


カバー付きで整理され、書架に並べられた資料
手前右側に歌舞伎台本、左側に映画の台本がある

開館式当日書庫開きの
鋏入(はさみいれ)を行う大谷竹次郎
当時の資料の総数は、歌舞伎を含む演劇・映画の台本を中心に約2万点。スチール写真が6万枚。また、昭和26(1951)年1月に逝去した大谷竹次郎の兄である白井松次郎の約3千冊に及ぶ蔵書も「白井文庫」として収められ、貴重な資料となっています。

松竹関係だけでなく、当館の活動にご賛同いただいている各社、篤志家からのご寄贈もあり、蔵書数は年々増加し、現在では43万余点の資料を所蔵しています。

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