歌舞伎・演劇の世界

新橋演舞場の歴史

時代を超えて受け継がれる新橋演舞場

新橋演舞場の新築開場は1925(大正14)年4月のことでした。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(新橋花柳界の重鎮で、置屋森川家主人)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源といいます。

新橋演舞場が建てられたのは、当時の東京市京橋区木挽町10丁目14番地(のちの6丁目9番地、そして現在の中央区銀座6丁目18番2号)で、この場所は、偶然にも芝居狂言『加賀見山旧錦絵』のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡でした。

建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったといいます。そこに定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられたのです。

多くの優れた専門家が結集し1923(大正12)年に着工。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングもありましたが、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場にこぎつけました。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。1940(昭和15)年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。 そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのです。

第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。1948(昭和23)年に復興されましたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなりました。そこで1982(昭和57)年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場です。新装には最新システムの導入だけでなく、ゆとりある客席空間、正面玄関のレンガなど、旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれています。