1978(昭和53)年『お祭り提灯』八木五文楽、大津十詩子、藤山寛美、曽我廼家文童

2013(平成25)年『お祭り提灯』曽我廼家文童、藤山扇治郎

1983(昭和58)年『お祭り提灯』藤山寛美

2013(平成25)年『お祭り提灯』渋谷天外、河合美佳、藤山扇治郎

2005(平成17)年『お祭り提灯』髙田次郎、千草英子、曽我廼家八十吉、曽我廼家寛太郎

1934(昭和9)年『渦』

新派・松竹新喜劇コラム
第2回 追いつ追われつ

 喜劇には「追っかけ」が付きものだ。チャップリンやキートンの古い映画には、浮浪者と警官の、あるいは財宝や女性をめぐっての「追っかけ」の場面がきまってある。観客は、あるときは逃走する小男に感情移入したり、反対にさらわれたヒロインを追いかける主人公に我が身をダブらせて、追いつ追われつのスペクタクルを楽しむ。
 こうした楽しさは、なにも映画の専売特許ではない。映画に先行するジャンルである芝居にも「追っかけ」の場面があり、それはたいてい喜劇的な状況と結びついている。
 なかでも松竹新喜劇のレパートリーである『お祭り提灯』は、「追っかけ」の楽しさを存分に楽しませてくれる喜劇小品だ。
 江戸時代の大坂。年に一度の祭りの最中に町内の寄付金を入れた財布が紛失する。それを見つけた正直者の提灯屋は、商売物の提灯の中に財布を隠すが、強欲な金貸しがそれに気づいて一思案。言葉巧みに提灯を手に入れるとその場を立ち去る。
 ――というのが一応のストーリーだが、四十五分間ほどの上演時間の、うしろ半分は、財布の行方を求めて人々が町中を走り廻ることに終始する。芝居は映画のように走っている姿を延々と描写することは出来ない。そのかわりに、いまここまで走ってきたという実感が大事になる。数年前に新橋演舞場で観たときは、紅壱子(現・萬子)のばあさんがヘトヘトになって駆け込んでくる風情が面白くて、よく覚えている。

 睡眠中に見る夢には、目的地になかなかたどり着けないという定型がある。『お祭り提灯』の感覚は夢に似て、駆け回る道中が延々とのび続けて、いつ果てるともしれない。そういう不思議な感じを、松竹新喜劇の座員はよく出していた。
 この芝居、もともとは俄(即興劇)の演目で、明治時代末から大正時代にかけては、初代渋谷天外の一座がとりあげたという。その後、二代目天外が『渦』というタイトルの芝居にまとめ、戦前の松竹家庭劇の演目になった。興味深いのは、戦前までは茶碗屋を舞台にした現代劇だったが、昭和二十四年にまげ物に改作されて大阪中座で上演。いま観る形として定着したという経緯だ。つまり、現代風俗と切り離したことによって、喜劇としての純度が高まり、今日までの命脈が保たれたと言える。これは芝居における「まげ物」の意味を考えるヒントにもなろう。
 提灯屋の丁稚が重要な役廻り。数年前の上演では、藤山扇治郎が丁稚を演じ、たったひと言のオチで、大騒ぎの一幕を見事に締めくくった。

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文・和田尚久(わだなおひさ)

放送作家・文筆家。東京生まれ。 著書に『芸と噺と 落語を考えるヒント』(扶桑社)、『落語の聴き方 楽しみ方』(筑摩書房)など(松本尚久名義で上梓)担当番組は『立川談志の最後のラジオ』、 『歌舞伎座の快人』、『青山二丁目劇場』(以上、文化放送)、『友近の東京八景』、『釣堀にて』(以上、NHKラジオ第1)ほか。