#05

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海老沢孝裕

――俳優さんはもちろんのこと、お客様もまた歌舞伎を長年愛されてきた方々が多いかと思います。そういった長い歴史を持つ歌舞伎の世界で仕事をするためには、膨大な知識と経験が何よりも必要とされるのではないでしょうか。

海老沢 そうですね。先ほど述べたように、俳優も私たちも真剣勝負です。ですから、できなさそうなことでも「できない」ということはまず最初からは言いません。色んなバリエーションを頭に入れて、現場で経験を重ねていきます。江戸時代から400年の歴史を持つ歌舞伎の世界。わからないことがあった時、400歳の人がいれば聞いてすぐ解決できますが、そんな人はいません。自分が携わった年数の分しか知識は得ることができません。終わりがなく、やればやるだけ、知識と経験が身に付くはずです。特に古典ものは、どれだけの知識と材料があるのかが大切です。他のお芝居と違って、歌舞伎の世界は「あなたは歌舞伎を当然知っているでしょう?」ということが前提。台本は新作や特別の物でない限りなかなか全スタッフ迄行き届かない世界です。ひと月仕事の合間を見て舞台の袖に行って、まずは自分の担当した役所から見て勉強をし、約10年位(チャンスがあれば)何回も同じ狂言を違う俳優さんの物を見てようやく1本の芝居のイメージを組み立てることができるようになります。それができるようになると、歌舞伎衣裳の準備そのものの楽しみ方も変わってきますね。

――台本のない世界で、次の世代へどのように継承されているのでしょうか。

海老沢 最近では「働き方改革」もありますが、どうしても知識がものをいう仕事ですので、個人で経験をしていくほかには受継ぐことは難しいように感じています。特にこの世界はより多く経験し、失敗をも確実に記憶しなければ覚えられません。怒られて、怒られて、いざという時にふとアイデアが湧いて、対処ができるようになっていく。私も昔は、先輩に頼みごとをされた時は、「なぜ今この仕事を頼まれたのか」、「何を求められているのか」、良く考えて行動しなさい。「ただの“おつかい”になってはいけないよ」と先輩からよく言われました。最近は若い方で「早く一人前になりたい」という言葉を聞きますが、いくつもの階段を登り、乗り越えて初めて一人前になることができます。階段を一段ずつ登らないことには、一人前にはなれません。まずは失敗をしてもいいから、やってみる。分からないことがあれば、なぜそうなったのか、歴史の物語をつけて説明をしたり、そんなこともあるんだよとウンチクも混ぜて話すことで、場がほぐれたりするなど、サポートをしてあげるようにしています。

――時代とともに変わっていることもあるのではないでしょうか。

海老沢 最近は、色やちょっとした違いに対しての感性が、鈍くなっているように感じます。同じ色味一つにしても、関西と関東では色や言葉が異なり、着物の呼び方も違います。例えば、「樺色(かばいろ)」というのをご存知でしょうか。オレンジ色のイメージが強いかと思いますが、私が入社をした時は、赤茶味帯びたオレンジ色のことを指していました。でも歴史をたどっていくと、これもまたどこかで差があって、茶色がかったオレンジ色(白樺等樹液で染めたもの)だったそうです。色だけではありません。文楽の『お染七役』という演目では、背中に「麻の葉の柄や刺繍のされた」涎掛けのようなもの「漢字は分かりませんが、おはんがけ」が付いています。これは髪の毛を結い上げる時に使うびんつけ油が着物の襟に付くのを防止するためのものだそうです。ですが、今はこれが使用されるのは文楽のみで、歌舞伎ではほとんど使用されません。90%近くの人が、“知らないもの”となっているからです。

私は、こういったものにも興味があるため、先輩に教えてもらいましたが、疑問に思って質問しなければスルーしてしまい、名前も存在も知らないままです。無くなっているということを知って使わないのと、知らないで使わないのとでは大違い。時代とともに、諦めなければならないものや、なくなるものもあります。歌舞伎の衣裳の色も、どんどん変わっていきます。そういった世界がさみしくもありますが、これからの歌舞伎界のために守っていきたいとも思っています。

おわり

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#04#06

海老沢孝裕(えびさわたかひろ)

1978年松竹衣裳、演劇部に入社。80年頃より劇団前進座の五世河原崎國太郎丈を担当。91年、九世坂東三津五郎丈、五世坂東八十助(十世三津五郎)丈担当。その後、十七世市村羽左衛門丈担当となり、同時期に二代目尾上辰之助(現・松緑)丈も担当。2001年7月羽左衛門丈没後、本社勤務となり、17年5月松竹衣裳株式会社代表取締役社長に就任。