映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史 Part1 〈日本と松竹の映画の歴史〉

1896年

日本における初の映画上映

トーマス・エジソンとキネトスコープ
日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって、1896(明治29)年11月、神戸の神港倶楽部で始まりました。 アメリカのトーマス・エジソン研究所が1889(明治22)年に開発し、1893(明治26)年に公開した、大きな箱の中の動く映像を覗き穴から見る方式のもので、キネトスコープと呼ばれていました。映像だけで音はありませんでした。

1897年

大阪で最初の興行が行われる

続いて翌1897(明治30)年2月、フランスから大きなスクリーンに映像を映写できるシネマトグラフが輸入され、大阪で最初の興行が行われました。 2年前の1895(明治28)年<松竹創業の年>にオーギュストとルイのリュミエール兄弟が発明したもので、リュミエールの会社の技術者が、京都で歌舞伎俳優の所作事などを撮ったとされ、これが日本で行われた最初の映画撮影だったとされています。

1898年

日本人による初の映画撮影

日本人による映画撮影としては、1898(明治31)年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まります。翌1899(明治32)年には『芸者の手踊り』が東京歌舞伎座で公開されました。これは小西商店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎が実写撮影した、音を持たない無声サイレント映画ですが、日本率先活動写真家の駒田好洋という説明者(日本独自の“活動弁士”)が登場しています。

1899年

柴田常吉撮影、九世市川團十郎・五世尾上菊五郎出演『紅葉狩(もみじがり)』

第一期歌舞伎座
第1期歌舞伎座
劇映画が恒常的に作られるようになった1899(明治32)年、三越の写真部にいた柴田常吉は、東京の歌舞伎座(第1期)で評判になっていた九世市川團十郎・五世尾上菊五郎の『紅葉狩(もみじがり)』を、歌舞伎座の裏の野天で撮影しました。 現在、東京国立近代美術館フィルムセンターに保存されている最も古い日本映画です。

1919年

松竹合名会社は本格的に映画事業に進出

1919(大正8)年3月、演劇興行会社であった松竹合名社は、白井信太郎らを欧米の活動写真界の現状視察に派遣しました。ちなみに白井信太郎は、白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の末弟です。 白井らは、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニバーサル社を視察し、「ユニバーサルなどは撮影所がそのまま一つの都市になっていて、大規模な不動産会社を兼ねている、また製作フィルムのほとんどは外国に輸出されるから、本格的に取り組めば世界的な大事業になる」と大谷竹次郎社長に報告しました。かねてから映画事業を考えていた大谷社長は、海外の活動写真の状況を聞き、本格的に映画界に進出することを決意します。

1920年

松竹キネマ合名社を創立

松竹キネマ合名社
1920(大正9)年2月、東京市京橋区築地3丁目9番地に「松竹キネマ合名社」を創立して、映画製作・配給を発表、新聞紙上に従業員と撮影所用地の募集をしました。社長に大谷竹次郎、副社長に白井信太郎が就任しました。
蒲田オ-プンセット
蒲田撮影所オ-プンセット
松竹がやる以上はと、最善の設備と最高の技術を取り入れるべく、多数の照明器具、ベルハウエル・カメラなどを購入。そして、技術指導者として、カメラマンのヘンリー・小谷を招聘、他に大道具技師のジョージ・チャプマン、撮影監督の田中欽之の2人を招き入れました。

当時持ち込まれたアメリカン・システムの一つに、「ディレクター・システム」があります。ハリウッドでは、初めに「スター・システム(主演俳優主義)」があり、次いで演出者が中心となる「ディレクター・システム」になったとされています。その後プロデューサーが中心となる「プロデューサー・システム」が成立することになります。 「ディレクター・システム」は、監督という存在を頂点にして体系化された組織を編成し、製作を進めるやり方です。この後、松竹の映画製作では、この「ディレクター・システム」を、一つの特徴とすることになります。

松竹キネマ社章
松竹キネマ社章
また、4月1日には、木挽町の歌舞伎座の裏手にある芝居茶屋「梅林」の二階に松竹キネマ俳優学校を開校し、劇作家・演出家の小山内薫が校長となって俳優の養成を行い、映画界に人材を送り込みました。