映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史 Part9 〈戦争映画とアニメーション〉

1940年

映画各社に通達文書

第12回東京五輪が行われるはずだった1940(昭和15)年、世の中は国家総動員の新体制となり、映画各社に通達文書が渡されました。

この通達文書の内容は、「当局の望むものは健全な国民娯楽映画で、積極性あるテーマを希望する」、「小市民映画、個人の幸福のみを描くもの、富豪の生活を扱ったもの、(略)外国かぶれの言語、軽佻浮薄な動作等は一切禁止する」。そして「シナリオの事前検閲を厳重に実施し、(略)何回でも訂正を命ずる」というものでした。

松竹はこれまで、戦場を舞台とした戦争映画を製作した実績はほとんどありませんでしたが、その戦争映画第一回作品として、菊池寛が東京日日新聞に連載した『西住(にしずみ)戦車長伝』を製作することに決めました。 監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住小次郎役として主演しています。
『西住戦車列伝』(監督・吉村公三郎)

1943年

島津保次郎門下の木下惠介が監督デビュー

1943(昭和18)年、島津保次郎門下の木下惠介が、菊田一夫の舞台劇を津路嘉郎が脚色した『花咲く港』で監督デビューしました。 南九州の小さな港を舞台に、ペテン師2人が町の人間をだまし、またお互いをだますというコメディを、鮮やかな才能で描き、同じ年に東宝からデビューした黒澤明とともに、この後の日本映画界を背負う良きライバルの誕生を強く印象付けました。

木下監督はさらに翌1944(昭和19)年の『陸軍』のラストシーンで、出征する我が子の姿を求めてひたすら走る母親(田中絹代)を描く長い移動撮影で、戦時下の観客に感動を与え、その才能への評価を確かなものとしました。
『陸軍』(監督・木下惠介)

1942年~1945年

日本の初期アニメーション

この時期の異色な成果として、アニメーションがあります。 松竹は、動画映画の製作を振興すべく松竹動画研究所を設け、1942(昭和17)年第1作『フクちゃんの奇襲』、1943(昭和18)年第2作『くもとちゅーりっぷ』(2巻)を完成させました。 これは、熊木喜一郎企画のもとに横山道子の原作を脚色し、弘田竜太郎指揮の松竹交響楽団が演奏を担当しました。愛らしいテントウ虫と悪魔のようなクモ、そしてチューリップによるファンタジーで好評を得、同研究所はさらに第3作と第4作を製作しました。
『くもとちゅーりっぷ』
ですが松竹動画研究所は、第5作として製作した6巻の長編、脚本・演出・撮影の瀬尾光世『桃太郎 海の神兵』(背景・黒崎義介、動画・正岡憲三)を1945(昭和20)年3月に完成させ、これを最後に物資逼迫化により閉鎖されました。 しかしこれらの作品は、わが国の初期アニメーションとして、映画史に残る業績となっています。
『桃太郎 海の神兵』

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