映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史 Part13 〈隠れた名匠〉

「型にはまらない」名匠・清水宏

1966(昭和41)年の没後も一定の評価はありましたが、忘れられた過去の名匠の側面が強い監督でした。俳優の笠智衆は、自著で「僕は、清水監督の作品が実に好きで、自分が出してもらったのを含め、いいシャシンがいっぱいあったと思います。小津先生の作品は、いろんな人があれこれ言いますが、清水オヤジのシャシンをきちんと評価する人がいないのが不思議でなりません。」(「先生の親友・清水オヤジ」『大船日記 小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年)と述べています。
また小津安ニ郎は親友の清水宏に対し、「何歩あるいて、立止まってこんな風にふり向いてなどと役者に指図せず適当に撮っているようで、ちゃんと清水調の作品になっている、そこにぼくとお前の違いがある、やっぱりお前は天才だなあ」と語ったとされています。
1990年代前半に入り、松竹から清水宏作品のビデオが発売され、1930年代の松竹時代を中心に清水宏の再評価の機運が高まりました。
その後、2003(平成15)年、第4回東京フィルメックス国際映画祭において特集上映企画「清水宏 生誕100年」(東京国立近代美術館フィルムセンター共催)が開催され、『港の日本娘』など10作品が上映。清水宏作品の『簪(かんざし)』が同映画祭の観客賞を受賞。また2004(平成16)年には、第54回ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で「清水宏監督特集」、第28回香港国際映画祭でレトロスペクティヴ「清水宏101年記念展」が開催されました。
そして、2008(平成20)年には、代表作の一つである『按摩と女』(1938年)を、石井克人監督が草彅剛主演でリメイク。作品『山のあなた〜徳市の恋〜』として製作され、名匠清水宏の名前が再び広く知られることになりました。
按摩と女
『按摩と女』(出演・高峰秀子、徳大寺伸)©️松竹
清水宏は1922(大正11)年、女優粟島すみ子の口利きで蒲田撮影所に入社し、池田義信監督に助手として付きます。翌1923(大正12)年に松竹に入社してきた小津安二郎とは終生の親友となります。
1924(大正13)年、21歳の若さながら『峠の彼方』で監督デビュー。新人時代は、山村や田舎の田園風景を背景にして若者たちの失恋と恋の衝動を多く描いて、センチメンタルな作風でした。山の話ばかりを撮るため、「山監」と呼ばれたこともありました。 その後、一時野村芳亭監督とともに京都下賀茂撮影所に移りました。そこで、入社したばかりの田中絹代の主演デビュー作品『村の牧場』(1924年)を撮るなどして、撮影所内では田中絹代との関係が公になりました。
翌年蒲田に復帰し、メロドラマのほか、流行した新聞広告の映画化、旅芸人や放浪者など旅する人々を描いた小さな物語、ペーソスのあるコメディなど多彩な作品を量産して、松竹一の早撮りの多作家となり、デビュー10年目にして既に100作品近くの映画を監督しました。当時、「急がされると良いものができる」とまで言われました。
1930年代に入り、若手監督として城戸撮影所長からフレッシュさを認められ、手際のいい商業映画の監督として重宝がられました。特に、『大学の若旦那』(1933年)に始まる「大学の若旦那シリーズ」では明るく朗らかな笑いを提供し、清水は、このシリーズの成功によって松竹現代劇の娯楽映画を代表する監督となりました。このシリーズの端役でデビューしたのが上原謙ですが、彼の息子の加山雄三は「若旦那」シリーズの戦後版である「若大将」シリーズに主演することになります。
大学の若旦那
『大学の若旦那』©️松竹
有りがたうさん
『有りがたうさん』(出演・上原謙、桑野みゆき)©️松竹
風の中の子供
『風の中の子供』(出演・河村黎吉、吉川満子)©️松竹
日本映画界が本格的にトーキーの時代を迎えた1936(昭和11)年、『有りがたうさん』を発表。伊豆の街道をバス1台で走りながら、その中でとられた全編ロケーションでとる手法は、「実写的精神」と呼ばれ、絶賛を浴びます。それ以来、自然の情景の中で演技を発展させる手法を徹底的に追求することとなります。
清水は作為ではない、あるがままなものを好んだため、子どもや新人俳優、大部屋俳優、素人を好んで使いました。その流れで、坪田譲治の児童文学を映像化した『風の中の子供』(1937年)、『子供の四季』(1939年)の中で、彼の演出技法は効果的だったとされています。
1941(昭和16)年、田中絹代主演の『簪』を製作します。夏の温泉場に東京からやって来たひとりの女。彼女が風呂場に落とした簪(かんざし)をきっかけに巻き起こる、滞在客の人間模様を綴った珠玉の一篇。田中絹代、笠智衆が、ほのかに思いを寄せる30歳代の男女を演じています。
簪
『簪』(出演・田中絹代、笠智衆)©️松竹
戦後は松竹を辞め、一時は隠遁したと噂されましたが、戦災孤児たちを引き取り育てながら、1948(昭和23)年に自らの独立プロ「蜂の巣映画」を立ち上げ、彼らを主人公に『蜂の巣の子供たち』(1948年)をはじめとする「蜂の巣3部作」を作りました。これらの作品は、戦後の独立プロの嚆矢として知られています。

「映画の教科書とされる」名匠・中村登

古都
『古都』(出演・岩下志麻、宮口精二)©️松竹
智恵子抄
『智恵子抄』(出演・丹波哲郎、岩下志麻)©️松竹
中村登と黒澤明。2018(平成30)年現在、日本の映画監督で、アカデミー賞外国語映画賞に2本ノミネートされたのはこの二人だけです。
『古都』(1963年)は、1964(昭和39)年のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート~受賞作品は『8 1/2』(イタリア)。『智恵子抄』(1967年)は、1968(昭和43)年のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート~受賞作品は『厳重に監視された列車』(チェコスロバキア)。
木下惠介監督と同い年。端正かつ鮮やかな作風は「映画の教科書」と評されています。
1936(昭和11)年に、蒲田から移転したての大船撮影所に助監督として入社しました。主に島津保次郎、吉村公三郎監督に師事し、1941(昭和16)年に『生活とリズム』で監督デビューを果たしました。戦後の1951(昭和26)年『我が家は楽し』は、笠智衆、山田五十鈴、高峰秀子、佐田啓二などのスターに加え、岸恵子のデビュー作でもあり、出世作となります。
我が家は楽し
『我が家は楽し』(出演・笠智衆、山田五十鈴)©️松竹
1953(昭和28)年には三島由紀夫原作の『夏子の冒険』。『カルメン故郷に帰る』(監督・木下惠介)に続く、日本製カラー劇映画第2作として当時注目を浴びました。中村登監督は、「ライトに桃色や青のフィルターをかけて室内と野外のちがい」を出したと語り、スタッフが技術的な打合せのために渡米するなど、かなり苦労したといいます。撮影現場のセットには、三島由紀夫も訪問していたそうです。
1957(昭和32)年には井伏鱒二原作の『集金旅行』を撮り、佐田啓二、岡田茉莉子主演のロードムービー映画で大ヒットし、松竹の「旅行もの」のシリーズのきっかけとなりました。佐田啓二扮する主人公の「教養が邪魔して」が、当時流行になりました。
集金旅行
『集金旅行』(出演・佐田啓二、岡田茉莉子)©️松竹
1960年代に入り、川端康成原作、岩下志麻出演『古都』(1963年)、有吉佐和子原作、司葉子出演『紀ノ川』(1966年)、高村幸太郎原作(佐藤春夫原作一部)、岩下志麻出演『智恵子抄』(1967年)などの文芸大作に手腕を見せ、松竹を支えました。 『古都』は、古都・京都を舞台に、生き別れになった双子の姉妹の数奇な運命を描いた川端の代表作の一つ。様々な角度から撮られる京都の四季や風物が、岩下志麻の魅了を最大限に引き出す背景となっていて、彼女のベストワン作品ともされます。
また『紀ノ川』は、明治・大正・昭和を紀ノ川とともに生きた美しく聡明な女性と、新しい時代に息吹く娘と孫。女の中に脈打つ強い生命力と豊かな母性を描いた、感動巨編。司葉子の代表作の一つと数えられています。
これら、有名な原作、美人女優の名演もあり、中村登は女性映画を得意とした松竹の中で、安定した力量で文芸映画、女性映画を量産した監督です。人間性への深い考察さながらに家族や夫婦の情愛をしみじみと描きだし、爽やかな後味を残す作品が多く、日本映画の良質な部分を代表するような監督と言えます。
紀ノ川
『紀ノ川』(出演・司葉子、岩下志麻)©️松竹
松本清張原作の『波の搭』(1960年)は有馬稲子と津川雅彦主演のサスペンス。映画の中でふたりが逢いびきする場所になる東京の深大寺が、お陰で広く知られるようになりました。
一方、『いろはにほへと』(1960年)は、1953(昭和28)年に発生した保全経済会事件の話で、高利で客を集めて破綻する投資組合の経緯を橋本忍が脚本にしたものです。はじめテレビで、後に映画になった題材で、投資会の理事長役を佐田啓二が扮するなど映画ならではの贅沢さを持たせた結果、日本映画史に残る傑作と、一部では言われています。刑事役の伊藤雄之助が、いつも寝言で、いろはかるたの文言を使うことから、『いろはにほへと』というタイトルになりました。日本の刑事モノ映画では、刑事の家庭を描いたものが多いと言われますが、その走りがこの作品だとも言われています。
波の搭
『波の搭』(出演・有馬稲子、津川雅彦)©️松竹
桑野みゆきの代表作とされる『夜の片鱗』(1964年)は、太田経子の原作を『古都』でコンビの権藤利英が脚色、中村登が監督した風俗ドラマです。コンビのカメラマン成島統一郎のスタイリッシュなカラー撮影が圧倒的です。
これら『いろはにほへと』や『夜の片鱗』などの異色作もありますが、中村登監督は女性映画を得意とした松竹で、安定した力量で文芸映画、女性映画を量産した監督です。家族や夫婦の情愛をしみじみと描きだし、爽やかな後味を残す作品が多く、日本映画の良質な部分を代表するような「名匠」監督と言えます。
1979(昭和54)年、原作川口松太郎、主演萬屋錦之助の『日蓮』が最後の作品となりました。
そして1981(昭和56)年、日中合作映画『未完の対局』の準備中に、ガンのために亡くなりました。
夜の片鱗
『夜の片鱗』(出演・桑野みゆき、平幹二郎)©️松竹

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