映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史Part5〈映画女優 田中絹代〉 

映画女優 田中絹代(前半)

田中絹代。日本映画の黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人です。小津安二郎、五所平之助、溝口健二、成瀬巳喜男、清水宏、木下惠介ら大物監督に重用され、およそ260本の作品に出演しました。 そして、松竹の社史(百年史)の中で、最も多く名前が出ている映画女優です。 1924(大正13)年7月、兄が松竹大阪支社で働いていた関係で面接を受け、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と二人で京都に移住しました。 そして10月には、野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同年公開の清水宏監督『村の牧場』では、早くも主役に抜擢されました。
1925(大正14)年6月の下加茂撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で主役の妹役に抜擢され、以降島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もこなしました。 1927(昭和2)年、五所平之助監督の『恥しい夢』で、芸者役で主演し、出世作となります。翌1928(昭和3)年からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929(昭和4)年小津安二郎監督の『大学は出たけれど』では、可憐な娘を好演しました。
下加茂撮影所
下加茂撮影所©️松竹
この頃、蓄音機とレコードの普及も著しく、流行歌ブームが訪れました。レコード会社は競って映画会社とタイアップし、蒲田撮影所もコロムビアとジョイントして、主題歌レコードの宣伝を先行させる作品を製作・公開しました。そこで、松竹映画小唄「蒲田行進曲」が生まれています。1929(昭和4)年9月に公開された五所監督の『親父とその子』に挿入されていた外国曲「ソング・オブ・ヴァガボンド」に堀内敬三が詩をつけ編曲したものです。 「・・・輝く美の理想/とこしえのあこがれに/生くる蒲田/若き蒲田/キネマの都」の歌詞が 謳歌するように、当時好調な松竹蒲田、松竹映画の応援歌として、今もなおJR蒲田駅で流れています。 そして、「蒲田行進曲」が表わす蒲田映画のシンボル的イメージが田中絹代となり、デビュー5年という瞬く間に、松竹蒲田の看板スターとなりました。 さらに、1932(昭和6)年、1932(昭和7)年、野村監督の『金色夜叉』で大スター林長二郎と共演しました。スター2人による貫一・お宮は評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となるほどの人気作となりました。
大学は出たけれど
『大学は出たけれど』(監督・小津安二郎)©️松竹

映画女優 田中絹代(後半)

松竹蒲田の看板スターとなった田中絹代は、五所平之助監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』、島津保次郎監督『春琴抄 お琴と佐助』などと、途切れることなく主演を演じ続けます。 1936(昭和11)年1月15日、撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏の上原謙、佐野周二、佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じました。 とりわけ1938(昭和13)年に上原謙と共演した野村浩将監督のメロドラマ『愛染かつら』は、空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作されました。
『金色夜叉』(監督・野村芳亭)・『伊豆の踊子』(監督・五所平之助)©️松竹
『愛染かつら』(監督・野村浩将)©️松竹
そして1940(昭和15)年、松竹が京都太秦の元マキノ映画の映音研究所スタジオを買収し、松竹太秦撮影所と改称して製作した溝口健二監督の『浪花女』にも出演、坂東好太郎、 高田浩吉との共演で、溝口監督の厳しい演出にも応え、作品的にも興行的にも大成功に導いています。 戦後も引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続けました。1946(昭和21)年から始まった毎日映画コンクールでは、第2回の1947(昭和22)年は、『結婚』『女優須磨子の恋』『不死鳥』で、第3回の1948(昭和23)年は、『夜の女たち』『風の中の牝鷄』で、2年続けて女優演技賞を獲得しています。そして田中絹代は、1949年(昭和24年)10月、日米親善使節としての渡米を機に松竹を退社します。 松竹退社の3年後、1952年(昭和27年)、溝口監督による『西鶴一代女』に主演、作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞、さらに翌1953(昭和28)年には、同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞しました。
『浪花女』(監督・溝口健二)©️松竹
一方で田中絹代は、1953(昭和28)年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表。相談相手の成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』に監督見習いとして加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受けます。そして12月に『恋文』を公開、日本で2人目の女性監督の誕生となりました。生涯では、京マチ子主演の『流転の王妃』など6本の監督作品を発表しています。 その後は主演作こそ少なくなるものの、1958年(昭和33年)公開の松竹製作、木下惠介監督『楢山節考』では、自分の差し歯4本を抜いて老婆を演じ、キネマ旬報賞女優賞を受賞しました。
『楢山節考』(監督・木下惠介)©️松竹

また1974(昭和49)年には、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞や芸術選奨文部大臣賞などを受賞しました。 1977年(昭和52年)3月21日午後2時15分に死去。67歳。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』でした。同年3月31日に築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟の小林正樹監督が喪主、城戸四郎が葬儀委員長を務めました。

 次回・Part6〈『愛染かつら』と『残菊物語』〉