映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史 Part6 〈『愛染かつら』と『残菊物語』〉

1938年

『愛染かつら』

1937(昭和12)年に始まった日華事変が進行するにつれ、国民生活は次第に緊迫していきます。多くの青壮年が戦場に駆り出され、物資は軍需方面に集中され、国民生活が苦しくなっていったのです。 こういう時だからこそ、映画興行は国民生活に慰安と潤いを与えるべきとして、松竹映画では、時局便乗的な場当たり主義を避け、努めて健全娯楽を謳った伝統の松竹調を以て、製作の基本としました。 その一つに1938(昭和13)年の『愛染かつら』があり、松竹は大船調女性大作映画に踏み出したのです。
『愛染かつら』(監督・野村浩将)
原作は川口松太郎の婦人雑誌長期連載の典型的すれ違いメロドラマ。脚色・野田高梧、音楽・万城目正、監督・野村浩将で、「花も嵐もふみ越えて、行くが男の生る道……」(作詩・西条八十)の主題歌が全国に流れる中、子連れの美人看護師(田中絹代)と病院の跡継ぎの若い医師(上原謙)との悲恋ものという全女性必見の映画として製作。爆発的に大ヒットしました。翌年5月には後篇、そして11月には第3篇の完結篇が製作され、前後篇に劣らぬ成績で松竹映画創立以来の記録となりました。
愛染かつら
  『愛染かつら』新聞広告

1939年

監督・溝口健二の『残菊物語』が優秀映画選奨の第1回文部大臣賞を 受賞

1923(大正12)年9月の関東大震災の際、蒲田撮影所はフィルム倉庫の倒壊やガラス・ステージの倒壊など、使用不能となりました。 松竹は、このような災害にもひるまず、直ちに主な大道具スタッフを、芝浦の岸壁から海路、関西に向けて出発させました。彼らは京都加茂川畔の孟宗竹の林を切りひらいて、トタン張りのバラック造りをやり、いわゆる下加茂撮影所開設の先陣を切っていたのです。

そして、『愛染かつら』の大ヒットと軌を一にして、京都でも名作が生まれています。 1939(昭和14)年監督・溝口健二が、日活、第一映画社、新興キネマを経て松竹下加茂撮影所に移って来ました。 後年女性映画の巨匠と呼ばれるほど、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いていた溝口監督は、新生新派の花柳章太郎と森赫子主演で『残菊物語』を作りました。村松梢風の原作を依田義賢が脚色。溝口監督らしい一流スタッフによる完成度の高い芸道ものとして高評価を得て、優秀映画選奨の第1回文部大臣賞を受賞しました。溝口監督はその後、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」と呼ばれ、溝口作品の代名詞となる独自の長回しショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていきました。
『残菊物語』(監督・溝口健二)
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