映画・アニメの世界

vol.9 プロデューサー

誰も見たことのないものを見出していく
プロデューサー 深田誠剛

映画の数だけある、人の物語。監督のもつ作家性を生かし、心に残る作品を届けるため、すべてをかける仕事がある。今回は、松竹ブロードキャスティングよりプロデューサー・深田誠剛さんをご紹介します。

『スペシャルアクターズ』スタッフ・キャスト集合

Q.プロデューサーを志すようになったきっかけを教えてください。

深田:子どもの頃から映画が大好きで、監督になりたいという夢を持ち、日本大学藝術学部映画学科に進学をしましたが、同級生に個性の強い人が多く、入学と同時に夢を諦めました(笑)。学校の先生にでもなろうかと思っていた時、松竹から就職案内が来て、思い出づくりになるだろうと就職試験を受けたら合格、平成元年に入社しました。入社して4年目に衛星劇場(現松竹ブロードキャスティング)に出向、編成部に配属され編成の仕事を17年やりました。面白い仕事だったのですが、映画の放送権を月に100タイトル以上購入し、プログラムするという仕事を続けていたら、映画が「モノ」のように思えてきたのです。映画製作の裏側には、きっと人の生き死に関わるようなドラマがあるはずなのに、そういうことを知らないままでいいのだろうかと考えるようになりました。その答えを知るために、映画の製作に少しずつ関わっていきました。衛星劇場の編成の仕事をしながら、プライベートでインディーズの映画会社がつくる低予算映画の資金集めや配給・宣伝の仕事を手伝っていました。
そのうちに自分でも企画を提案するようになり、その1本が黒木和雄監督の『父と暮せば』(2004年公開)です。その後09年に松竹本社の秘書室に異動になりましたが、プライベートで映画製作に関わり続けていました。11年に映像企画室に移り、初めて正式にプロデューサーという肩書をもらいましたが、所属していた2年間、一本も企画を成立させることができませんでした。売れている原作や有名人キャストありきの映画作りが自分には合わなかったんだと思います。限界を感じ、もうこの会社を辞めようと思っていた時、松竹の迫本社長と話す機会がありました。そのときに「君は何がやりたいんだ?」と聞かれ、自分が理想とする映画作りの話をしたのですが、このとき話したことが、今私たちがやっている「オリジナル映画プロジェクト」の骨格になっています。迫本社長のアドバイスもあり、古巣の松竹ブロードキャスティングで「作家主義」と「俳優発掘」をテーマにした映画製作の部署を立ち上げることになりました。私と後輩の小野くんとの2人だけの出発でした。その後6年間で、『滝を見にいく』(沖田修一監督・14年公開)や『恋人たち』(橋口亮輔監督・15年公開)、など計8本の映画の企画・プロデュースをしました。
©「父と暮せば」製作委員会

Q.深田さんの映画作りは、どのように進んでいくのでしょうか。

深田:映画の企画をし、準備し、撮影に立ち会い、宣伝、配給までを担当します。メジャー作品のプロデューサーの仕事は、有名な原作を獲得することと、集客力のある出演者をキャスティングすることなどが重要な仕事になりますが、私たちの映画作りは、まず監督を決める、力のある監督を探し、その監督が本当に作りたい映画をできるだけ自由に作らせてあげることが、最大の仕事だと思っています。出演者は無名の俳優人たちの中から発掘するため、オーディションを兼ねたワークショップ形式でキャスティングをします。これを年に2本ほど、低予算の小さな作品ばかりですが、オリジナル映画として世に送り出しています。
©2014「滝を見にいく」製作委員会
―なぜ、「監督を決めること」を大事にされるようになったのでしょうか。

深田:私が若いころは、「監督が誰か」ということで観る映画を選択していたように思います。黒澤明や今村昌平、大島渚や木下惠介などもまだ現役で映画を作っていて、そういう個性豊かな監督たちの作家性を楽しむことができました。しかし、そういった映画の楽しみ方が、今の日本映画には少なくなってしまったように思います。そういう映画をもう一度観てみたい、かつてのATG映画(※1)のように低予算ならそういう映画が作れるじゃないかと思い、監督の作家性を重視した映画づくりを始めました。俳優のことでいうと、今まで見たことがないような役者が、映画の中で存在感を感じさせてくれることほど嬉しいことはありません。出演者は基本的に監督に選んでもらいますが、『恋人たち』(2015年公開)で主役に選ばれた篠原篤さんや成嶋瞳子さんは、特に際立っていたのを覚えています。そういった人たちを見つけることができたときは喜びを感じます。一方で私たちの映画は売れている俳優が出ていないため、宣伝しづらいということが悩みです。
恋人たち
©松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ
『恋人たち』
―監督、俳優の個性を映画作りにおいて、大切にされているということですね。

深田:そうですね。監督を決める際には、まずは作品を観て、次に実際に会ってその人の人間性を見極めます。映画作りは長期にわたるので、監督が人間的に良い人でなければ、どんなにその人に才能があっても途中でうまくいかなくなると思っています。その点、『スペシャルアクターズ』(10月18日公開)の上田監督は、才能も人間性もずば抜けて素晴らしい人でした。
『スペシャルアクターズ』

Q.上田監督とはどのようにして出会われたのでしょうか。

深田:オリジナル映画プロジェクトの第3弾『東京ウィンドオーケストラ』(坂下雄一郎監督・17年公開)を上映していた新宿武蔵野館に、「映画遠足」という映画サークルの人たちが観に来てくれて、その中に上田監督がいたんです。その時、ご自分の名刺をくれたのですが、その名刺に描かれていた上田監督の似顔絵がかわいらしくて、とても印象に残りました。「今度、長編映画を作るので、完成したらぜひ観てください」と言ってくれたのを覚えています。それから半年以上たったある日、上田監督から映画が完成した報告とイベント上映の案内がきましたが、なかなか日程があわず、イベント上映の最終日は飲み会の予定がありました。でも、なぜか無性に上田監督からの誘いが気になり、観ないと後悔をする気がして、飲み会を中座してタクシーを飛ばして上映に滑り込みました。中に入ると、映画館は異様な熱気、上映中は笑い声で劇場が揺れていると感じるほどの大騒ぎでした。その感じは、子供の頃映画館で観た『男はつらいよ』のお客さんの熱狂と似ていました。それが、後の大ヒットとなった『カメラを止めるな!』です。
『スペシャルアクターズ』
『スペシャルアクターズ』撮影風景
一週間後には、まだ会社の了承も得ていないにもかかわらず、上田監督に「次回作を一緒に作りましょう」とお願いをしてしまいました(笑)。上田監督も快諾してくれましたが、その後「カメ止め」が公開され、大ヒットして状況が一変、映画、テレビ各社からオファーが殺到、上田監督は一躍「時の人」になってしまい、2カ月ほどは連絡も取れなくなりました。「もうダメか」と諦めかけていたころ連絡が来ました。「一緒に企画の話をしましょう」と。
―そこから、『スペシャルアクターズ』が生み出されていったのですね。

深田:いえ、実は最初に上田監督が出してきた企画は全くの別物で、超能力映画でした。俳優さんのオーディションも終わって、あとは脚本が待つばかりだったのですが、上田監督から「書けない」と連絡が入り、超能力映画は一度白紙になってしまいました。クランクインの日も決まっていたので、間に合うのかとハラハラでしたが、なんとか持ち直し、残り1カ月で書き上げたのが、『スペシャルアクターズ』です。
『スペシャルアクターズ』撮影風景

Q.作品や監督との奇跡のような出会いを大切にされる深田さんですが、プロデューサーとして求められる素養とは何でしょうか。

深田:映画作りって所詮は人間関係だと思うんです。だから大切なことは信義を重んじるというか、関わった人を決して裏切らない、ということではないかと思います。フランシス・フォード・コッポラが「映画を作る人は、普通の人が一生の間に被る様々なトラブルを一本の映画で経験する」という言葉を残していますが、本当に映画作りはトラブルの連続です。なので、一緒に仕事をしている人との信頼関係がないと、簡単に崩壊してしまうのです。一緒にこれまでやってきた監督とは、信頼関係が築けたと思っています。私は頭が悪く喋りが上手でないため、地道に時間をかけてつきあうことで、監督と人間関係をつくってきました。定年まで残り5年間。まだ自分に使命があるのなら、大好きな人たちと映画を作っていきたいです。

(※1)ATG映画:日本アート・シアター・ギルド。1961年代に発足した映画会社。若手の起用や低予算映画など非商業主義的な芸術作品を製作・配給。

深田誠剛(ふかだせいごう)
平成元年松竹㈱入社。企画を務めた「父と暮せば」(04/監督:黒木和雄)で第24回藤本賞特別賞を受賞。2013年「作家主義×俳優発掘」を理念としてスタートした松竹BCオリジナル映画プロジェクトで、日本映画界に新風を吹き込む。「恋人たち」(15/橋口亮輔監督)で第35回藤本賞奨励賞を受賞。

<おまけ>教えて!プロデューサーお勧めの一作

『HOUSE ハウス』(1977年公開/大林宣彦監督)

中学1年生の時映画館でかかっていた作品。破天荒でおもちゃ箱をひっくり返したような今作は、当時ヒットせず理解がされませんでしたが、私の映画に目覚めるきっかけになった作品です。

2019年10月16日公開

取材:松竹株式会社 経営企画部広報室